わろてんか|団吾(だんご)モデル春団治の吉本専属がえげつない!

 

朝ドラ『わろてんか』では、藤吉は天才落語家の月の井団吾

風鳥亭の専属にしようと躍起になっています。

 

これは実際に団吾のモデルの初代桂春団治が、吉本興業部の専属になった

エピソードが下敷きになっています。

 

ところが実話の吉本せいと泰三夫婦は春団治を専属にするにあたって、

かなりえげつない手段を使っています。

 

このあたりをご紹介します。

 

 

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団吾(だんご)モデル春団治の吉本専属がえげつない!

 

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団吾のモデルの初代桂春団治は大正時代に人気に火がついて、

その後はまさに上方落語界のスーパースターでした。

 

当時の上方落語は桂派と三友(さんゆう)派の二派が争っており、

春団治は三友派に所属。

 

しかし大正3年(1914年)に三友派の実質的リーダーだった女興行師の原田ムメが他界。

 

大正5年(1916年)には桂派の頭領の二代目桂文枝も死去すると、

桂派は三友派に吸収されて消滅。

 

以降は三友派VS吉本興業部・浪速落語反対派(オチャラケ派のモデル)の

構図となりました。

 

当時の三友派の凋落は激しかったものの、春団治の人気は凄まじく、

たったひとりで三友派の本拠地の紅梅亭を満員にできるほどでした。

 

吉本にとっては春団治をぜひとも専属にして看板芸人にしたいところ

でしたし、三友派に引導を渡すためにその引き抜きを画策します。

 

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春団治は大正8年(1919年)に三友派に属しながら浪速派という一派を

設立しましたが、実はこれをバックアップしたのは吉本でした。

 

頭領となった春団治は浪速亭や京町堀京三倶楽部、南地三友倶楽部などの

寄席を経営することになりますが、彼は周知のとおり金銭感覚はゼロで

持ち前の放蕩も続けたことから、たちまち金銭的に困窮することになります。

 

大正6年(1917年)に薬種問屋の未亡人の岩井志うと再婚した際には、

およそ35万円もの持参金を得ていましたが、わずか2年ほどで使い果たした

ばかりでなく、多額の借金さえ抱えることになりました。

 

そのため春団治は浪速派を解散して寄席の経営からも手を引きます。

 

その後は吉本の支援を受けて地方巡業にも赴きますが、大正10年(1921年)

に帰阪した春団治を吉本せいと泰三夫婦が専属になるよう口説きます。

 

吉本が出した条件は前貸し金2万円(現在の1億円に相当)と月給700円という破格の条件でした。

 

三友派に義理立てして引き抜きなどには応じなかった春団治ですが、

当時は多額の借金で首が回らない状態でしたから、遂に陥落して吉本専属となります。

 

このように春団治の吉本専属にはかなり手の込んだ策略があったのです。

 

吉本せいや泰三夫婦は春団治が派閥や寄席の経営などできないのを

知りながら、一派を立ち上げさせて、挙句借金まみれにしているのです。

 

また春団治の吉本移籍によって、三友派は事実上崩壊して、

何人かの落語家も吉本に移籍しています。

 

これによって上方の演芸界は吉本興業部と反対派が制しているので、

春団治の引き抜きは計り知れない経済効果を吉本にもたらしています。

 

吉本せいや泰三のとった手段はえげつないように思われますが、

かなり深く練られた策謀で鮮やかと言うしかありませんね。

 

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